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うるさくて近い?

今年もウィンタースポーツの話題を耳にするようになりました。スピードスケートも行われていますが、やはりフィギュアスケートは人気があります。 女子のフィギュアスケートではロシアのメドベデワ選手があまりにもすばらしくていつも見るのを楽しみにしています。彼女の演技はスポーツというよりはまるで短いミュージカルでも観ているような、優れた芸術に触れているような感じがします。 メドベデワ選手の昨年のフリー演技のプログラムは"Extremely Loud & Incredibly Close"という曲でした。印象的なピアノの音といいとても良い音楽で、少し物悲しい旋律が心の中に強く残ります。彼女の演技は幸せそうに恋人を家から送り出すところで始まりますが、その曲の印象から見ている人に少し不安を抱かせます。そして最後は突然かかってきた電話を受けてその受話器を手から落とすところで突然演技が終わります。その最初と最後の彼女の表情は対極的で演技とも思えないような感動をもたらします。 演技の際のアナウンサーによる解説では、"Extremely Loud & Incredibly Close"は同名のタイトルの映画の中で使われた曲だということでしたが、私はその映画を観たことがないままメドベデワの演技を見ていました。 最近機会があり、映画を観ることができました。内容はメドベデワの演技で予想していたストーリーとは全く違ったものでした。そのことでも、メドベデワ自身とその振付師の演技の作り方に関心しました。おそらく局の印象から新たなストーリーを作ったのでしょう。 さて、映画はニューヨークの同時多発テロで父親を亡くした少年を中心にした物語でした。アスペルガー症候群を持つ少年が父親が亡くなったことで苦しみ続けるのですが、それでも父親に出されていた課題を解決するために自ら行動をするのです。 この時のアスペルガーの少年が持つ心の苦しみとそれを見守る母親と周囲の人たちの行動は、この映画のタイトルであらわされるように、重要な意味をもつものです。この映画をみると、アスペルガーや自閉症スペクトラム障害などを抱える子供たちの心が抱える問題の一端を表しているように思います。周囲の人も、この映画に出てくる人たちのように振舞えるといいのでしょうが、実際

セミの貢献

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私の頭の中ではいつもセミが鳴いています。おそらく耳鳴りというものでしょう。夏になるとセミの鳴き声なのか耳鳴りなのかわからなくなってきます。 いいのか悪いのか、家には小さな庭があり、そこがセミの格好の繁殖地になっています。夏の間にいったいどれだけのセミが羽化するでしょうか?夏の初めのころはなぜか羽化に失敗したセミが多くみられますが、ピークになるといたるところで羽化した抜け殻がみられます。 それと同時に命の最後の時期を迎えたりあるいは命を使い果たしたセミもよく転がっています。触ると最後の力を振り絞って騒ぎ立てるセミはおなじみのものでしょう。 うちのモンはどうもセミが好物なようです。散歩のとき、玄関から庭にでるとき、案外セミを食べる機会は多くあります。こちらが油断すると結構な頻度で食べてしまいます。モンは野犬だった時もあるので、セミを食べて栄養を取っていたこともあるのでしょうか?あるいは食べ物を得る機会に対しては貪欲なのでしょうか? この週末には箱根を散歩しました。散歩の途中でアブラゼミがほぼ外殻だけになり、空洞の腹部をみせている死骸に出くわしました。それをアシナガバチが執拗に食べていました。きれいに食べ終わった料理のお皿をさらにきれいに平らげるように、アシナガバチは最後の身を食べていたのです。モンの食に対する欲求を満たしているセミはアシナガバチの生存にも貢献しているのです。 更に歩くとヒグラシがたまたま身体に止まりました。鳴いていても静寂を感じるヒグラシは大好きです。これが私の頭の中で鳴いてくれればいいのに、と思いながら、モンに食べられないように離れたところに逃がしてやりました。カナカナカナ・・・と頭の中で聞こえたような気がしました。

モン、しあわせかい?

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動物の行動や性格は、遺伝と環境の両方が関わっているといわれています。私たちが研究で用いているマウスでも、遺伝による影響と環境による影響の両方が重要な役割を果たしていることをこれまでに示してきました。 モンがわが家にやってきて2週間がたちました。最初は見慣れない環境の中で不安そうにしていました。わたしたち家族のものが少しでも動くと即座に立ち上がり、不安そうにこちらを見ていました。他の部屋へ行こうとすれば、「どこへいくのですか?」とでもいいたそうな顔をしていました。しかし、1週間一緒に生活をすると顔つきも随分穏やかになり、日がたつにしたがって顔から緊張の色が消えていきました。2週目に入ると、もともとモンが持っている性格や行動がよりはっきりと見られるようになってきました。 モンはもともと鳥猟犬だったようで、他の犬と一緒に山に捨てられてやせ細っていたところを保護されました。その後、そうした保護された狩猟犬を受け入れて家庭犬になれるように体調管理やしつけをしつつ里親を探す活動をしている団体(CACI)を通してわが家にやってきました。つまり、それ以外はモンがこれまでどのような生活をしていたのか分からないのです。腹部に一発の散弾銃の玉が入っていること、最終的には山に捨てられていたことから、ひどい扱いを受けていたのではないかと思います。そう思うと、なおさらモンにしっかりと愛情を注ぎたいと思います。 部屋の中で身体を撫でてやるととても安心できるようです。いつまでも撫でてほしいようで、やめるともっと撫でてほしそうなそぶりを見せます。でも、近づきすぎると少し距離を取ろうとします。本来、とても人なつこい性格なのですが、扱いが少し違っていたのでしょう。外でも家の中でも呼び戻しはとてもよくできます。̪̪口笛で呼び戻しが簡単にできるので、もともとの飼い主が口笛で呼び戻しをしていたのかもしれません。座ることもよくできますが、待つことはあまり得意ではありません。それでもトレーニングを繰り返すうちにだいぶできるようになってきました。コマンドに従って伏せることは全く経験がなさそうです。そもそも伏せることがあまり好きではないのか、なかなか覚えるのは難しそうです。散歩は基本的に自由に歩きたいようです。人の横について歩くトレーニングは受けていないようです。なぜだかわかりませんが、毎日夕方になるとと

モンがやってきた

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ついにわが家に新しいワンちゃんがやってきました。 チェルシーがいなくなってちょうど3か月、チェルシーじゃなきゃこの心の寂しさは癒されないだろうと思っていましたが、だんだん新しいワンちゃんを迎えたい気持ちが強くなってきていました。今回は、捨てられて?飼い主がいなくなっていた犬を保護して里親を探す活動をされている団体の方たちからワンちゃんをわが家に迎えることになりました。新たに家族となったワンちゃんは6歳程度、立派な大人のワンちゃんです。おそらくこれまでにさまざまな経験をしてきたでしょう。捨てられて、保護された際にはとてもやつれていたということなので、さぞかし苦しい思いをしたこともあるでしょう。うちに来てからまだ少し不安そうにも見えてくつろいでいるようには見えません。私たちが別の部屋へ行くことがとても不安そうです。それでも昨日よりは随分落ち着いてきました。少しでも早くここが安心できる場所でずっといることができるんだと分かってくれることを願っています。 名前はモンちゃん、きれいな顔で、横顔はなんだかネバーエンディングストーリーのようです。 これからよろしく モン!

動物の飼育の仕方で個性は変わるでしょうか

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行動遺伝学では、性格や行動には遺伝と環境の両方が重要な役割を果たしているといわれています。大雑把にいうと、ほぼ半分は遺伝で残り半分は環境が関わっているといわれているのです。 しかし、これは集団全体を見た時の割合であって、それぞれの個体で必ずしも遺伝と環境が半々というわけではありません。たとえば、いつも多くの天敵が存在する厳しい生存競争の中で生活している動物は、周囲を常に警戒する臆病(おくびょう)な性格になるでしょうし、まったく天敵のいない楽園のような場所で生活する動物はおっとりした動物になるでしょう。こうした集団間での違いは生息している環境が性格に大きく影響したから生じたと言えるでしょう。 一方、家畜の飼育施設、たとえば養鶏場のような均一の飼育施設内で飼育されているニワトリでさえも顕著な個体差、性格の違いがみられることが一般的です。このような性格の個体差はもともと持っている遺伝的な違いが個体差を生み出したと考えられます。 このように、環境が均一だとより遺伝の影響が顕著に見えてきますし、環境が大きく異なれば遺伝よりも環境の影響がより強調されるでしょう。 私の家で飼育しているアカミミガメは、すでに10歳をはるかに超えていますが、まだまだ元気です。ここ数年は水槽を洗う際に庭に離すと私の周囲にまとわりついてきます。さらに甲羅から出した首の下を撫でると気持ちよさそうにしています。おそらくこの飼育環境うが我が家のアカミミガメを慣れた性格にしたのかもしれません。 チェルシーが旅立ってから3か月近くたとうとしています。家族でもそろそろ新しいイヌを家に迎えようかという話をしています。今回は保護施設に入っているワンちゃんを引き受けて里親になろうかと考えていますが、そういう場合はこれまでの「環境要因」は全く分かりません。さて、どのようになるか行動遺伝学者として楽しみです。

チェルシー!

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またまた長い期間、更新をせずに過ごしてしまいました。 他の人にそのことを指摘されると、何か時間がないことを言い訳にして逃げています。でも実際には時間がないということはなくて、少し考えるのが億劫(おっくう)になっているのだと思います。こんな記事でもいざ書こうとなるとああでもない、こうでもないと考えてしまいます。そういう気持ちのゆとり、というよりも気持ちの遊びの部分が必要だと反省しています。 一年と少し前に愛犬のリーズが去ってしまいました。それからちょうど一年後にチェルシーが去ってしまいました。チェルシーは15歳を目前にして旅立ったことになります。リーズもチェルシーも娘の春休みの期間中に死んでしまったのですが、おかげでその前後には娘たちも帰ってきてそばにいることができました。なんて家族思いの愛犬たちでしょう。 チェルシーは5カ月ほど病気で病院での治療(ちりょう)を受けていましたが、それでも何かと元気に過ごしていました。私はその間、夜はチェルシーと一緒に寝るようになりました。でもさすがに病には勝てずあるときから食事ができなくなりました。 食事がとれなくなってから二週間ほど家族が看病(かんびょう)のためつきそう日が続きました。チェルシーの身体がまだ元気で歩き回るうちは私も気持ちが楽でしたし、むしろずっと一緒にいるのを楽しく感じていたかもしれません。でもチェルシーが寝たきりになると、いろいろと命について考えてしまいました。 前回リーズの死について書いた際に、多くのペットの死と向き合ってきたことに触れました。でも今回はほぼ15年間全力で私と生活を共にしてくれたチェルシーの死であっただけに、その死と向き合うことは重いものでした。しかも2週間以上寝たきりになった状態での看病です。なんとなく自分の何かを一緒に徐々に失っていくような思いをしながら過ごした日々でした。 愛犬は全力で飼っている人に尽くします。一緒にいる、少なくとも起きている間は、私の注意をなんとか引き付けようとします。その愛犬がいなくなるときはなんと重いものでしょう。最後の瞬間はまだ大丈夫だろうと仕事に出た間に逝ってしまいました。娘がその時をしっかりとみてくれました。娘にも感謝です。 1か月半以上たった今、ようやくあらためて書くことができました。 チェルシーは今もどこかで投げたフリスビ