時間を切り取る画家「ドガ」

前回、大英博物館のことに触れました。同じように入場料無料としながらも寄付を求めている大きな美術館が小さな町、ケンブリッジにあります。フィッツウィリアム美術館(Fitzwilliam Museum)です。この美術館は、日本ではあまり知られてはいないかもしれませんが、その規模と所蔵品の膨大さは大英博物館とまではいかなくとも、それ相応の満足感の得られるものです。大英博物館の場合には、後半になると疲れ果てて展示物を見る集中力が切れてしまうものですが、フィッツウィリアム美術館の場合にはなんとかすべて楽しみながら見て回れるのも良い点です。展示品は、大英博物館のように古代エジプト、ローマ、ギリシャなどの考古学的にも意味のある美術品がたくさんありますが、それに加えて、陶磁器などが豊富にあり、絵画などの美術品が多いのも特徴です。宗教画なども多くありますが、印象派などの絵画も多数展示してあります。モネ、ルノワール、セザンヌなどよく知られた画家の優れた絵画が多く展示してありますし、浮世絵のコレクションを大規模に展示したギャラリーもあります。

私は、ケンブリッジに住んでいたころ、週末などで時間のあるときには、散歩がてらよくこの美術館に行きました。この町は本当に小さな町で、中心部ならすべて歩いて回れる規模です。美術館はその中心のトランピントン通りにあります。最初の頃はすべて見て回りましたが、頻繁に訪れるようになると、さすがに滞在時間も短く、見る対象も好きなものに偏ってきます。そのようなときは入場の際に、エントランスで若干の寄付をして、他の展示はほとんど素通りしてお気に入りを目指しました。なぜか一点だけ、その色と形がやたらと気に入っている青磁器をながめてうっとりとし、また浮世絵コレクションを見て日本に思いを馳せていました。

そしてなによりも気に入っていたのがドガ(Edgar Degas)の"Au Cafe"という絵です。

http://www.fitzwilliamprints.com/image/795049/degas-edgar-au-cafe-at-the-cafe-by-degas
この絵を窓から差し込む柔らかな光の中で遠目からゆっくりと眺めながら過ごすのがが至福の時でした。

ドガという画家はなぜこのように「ある時間の流れ」そのものを切り取って絵画にすることができるのでしょう。Au Cafeを見ていると、荒い筆のタッチでざっと絵の具をなでつけているだけなのに、その絵は臨場感にあふれ、キャンバスからはカフェの音や会話まで聞こえる気がします。不自然にキャンバスの右側で切り取られた一人の婦人は、このシーンの中心でないことを物語っています。でも、切り取られているがゆえに見る人はこの婦人の発する言葉にも注意を向けます。中心にいる婦人の顔は暗く曇り、その肩にも苦悩が伺えます。

外の木陰にあるテーブルで二人の婦人がレースの衣装に飾り付けをしながら、それとも手はおろそかになりながらでしょうか、会話をしています。どこからかウェイターがコーヒーカップを運んだり片づけたりする音がしています。
「私、ちょっとなんだか毎日の生活に疲れちゃった」
「どうしちゃったの?元気を出しなさいよ」
まるでそんな会話が聞こえてきそうです。

同じように、私がいつも気になるドガの絵がパリのオルセー美術館にあります。
"Madame Jeantaud au miroir"というタイトルの絵です。

http://www.musee-orsay.fr/en/collections/works-in-focus/painting/commentaire_id/mrs-jeantaud-in-the-mirror-2244.html?tx_commentaire_pi1%5BpidLi%5D=509&tx_commentaire_pi1%5Bfrom%5D=841&cHash=bff3fdfbe7
とても裕福そうな婦人が高価そうな衣服を着て美しく描かれていますが、鏡に映ったその顔は暗く苦悩に満ちています。その婦人がこんなに裕福でありながら幸せに暮らしていけない状況は、経済的なことに関わらず幸福と不幸は人に訪れることを示しているようです。婦人は小さな声をもらしています。
「なぜ?」 と。

ドガの絵は一連の動きをとらえることも巧みです。よく知られているのは、バレリーナの練習風景やリハーサル風景などの多数の絵です。踊り子は脚を上げて手を動かしていたり、衣装を整えたりしています。いずれの絵も練習の風景や音楽、それに舞台監督の指示まで聞こえてくるようです。

ドガは数多くのデッサンを残していますが、それらを見ると、彼が人の動きをとらえることをとことん追求していたことがわかります。そのデッサンは、歳とともに次第に無理な姿勢のスケッチになっていったようですが、それは一連の動きの頂点をとらえようとしたからなのでしょう。たとえば、ドガが好んで描いた裸婦の入浴の場面のデッサンなどに見られるポーズは明らかに無理な姿勢ですが、全体の一連の動きの中の一つととらえると自然な姿勢になります。そのために、その振れ幅として、動きの開始から終わりまでを一つのデッサン画で表すことができてしまうのでしょう。

私たちが研究しているマウスの行動では、その背景の状況や時間による変化をとらえると情報として豊かになります。その一方で、それを研究の舞台に乗せるのは難しいものです。でも、そのような時間の流れも切り取れるような行動研究をいつかしてみたいと思います。

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