脳の働きをまもる

脳や脊髄は固い頭蓋や脊椎骨で保護されていますが、その組織そのものは非常にデリケートなものです。脳組織における脂質の含量は60%におよび、堅牢な構造を保つことができません。そのため、脳や脊髄などの中枢系は脳脊髄液という無色透明の液体の中に浮かんでいるのです。イメージとしては、豆腐が壊れないように水の中に入れられているようなものです。こうすることで、輸送の際にも、商品棚に配置するような作業の際にも、多少の振動や衝撃があっても豆腐は壊れることなく形を保つことができます。脳も、この脳脊髄液の中に浮かんでいることで、走っている際に転んでも、あるいはサッカーでヘディングシュートをしても脳が簡単には損傷することなく形を保てるのです。

この脳脊髄液は脳の脈絡叢というところで毎日新たに作り出されて、古い液はまたクモ膜下腔というところで血液に吸収されてゆきます。その量はヒトで一日当たり500ミリリットル程度に及ぶそうなのでかなりの量が毎日脳の周囲を徐々に循環していることになります。容易に想像できるとは思いますが、このような頭蓋や脊椎骨のような硬い構造物の中に毎日同じ量の液を注ぎ込みつつ同量を正確に排出してゆくというのはとても繊細なシステムです。当然のことながら、この脳脊髄液の分泌と吸収のバランスが崩れると、脳の機能に大きな問題が生じます。

頭蓋内の脳脊髄液の量が多くなり、圧が高くなると水頭症という病気を発症します。水頭症になると、脳脊髄液の多くをためている脳室という部分が拡大し、そのぶん脳組織を圧迫していくことになります。このため、脳の機能に大きな影響を及ぼし、正常なはたらきが阻害されるのです。この水頭症の発症にも非常に多くの遺伝的要因が関与していることが知られてきています。

実は、マウスでも水頭症を発症する疾患モデルがあります。成体のマウスでは、ヒトと比べて頭蓋骨が薄く軽くできています。そのため、水頭症を発症すると成体であっても脳脊髄液の圧力上昇に伴い頭蓋の変形が見られるので、容易に発症個体を見出すことができます。


正常個体(左)と水頭症発症個体(右)
水頭症発症個体では頭蓋が変形していることがわかります
 私たちのところで研究してみると、このマウスの水頭症発症にかかわる遺伝子が数多くあることがわかりました。少なくとも6つの染色体上に水頭症に関わる遺伝子が存在することが分かったのです。つまり、このような多数の遺伝子により精緻につくられたシステムに不具合が生じると簡単に水頭症のリスクが上昇するのです。

実は最近、遠く愛媛の田舎で離れて暮らす私の父親の歩行に異常が見られるようになりました。8か月前頃に会った際には、歩き出す際に少し足が出にくそうな様子をみせていました。それ以外は会話をしていても特に変化は見られませんでした。2か月ほど前にふたたび会った際には、その歩行障害がさらにひどくなっていました。自分では歩き出そうとしているのですが、足はその場で細かく足踏みをしているだけで前に足が出ていません。それに、全体的に気持ちも沈んだ様子で、認知症でみられる症状の一つに似ているように思いました。これは、老化の症状が出ているというよりは脳の中で何かが起きていると思った私は、インターネットで医療情報のサイトを症状から検索して調べてみました。今は、こうしたサイトで非常にわかりやすく医療情報が載せられているのでとても便利です。特発性正常圧水頭症という病気が父親の症状ととてもよく似ていることを見つけ出すのにそれほど時間を要しませんでした。そういえば父親は頻尿にも困っているようでしたが、この症状もこの病気の典型的な症状の一つでした。同じサイトで、この病気の診断や治療をできる病院を調べてみましたが、問題がありました。愛媛県下ではそうした病院は県庁所在地の松山市に二か所あるだけなのです(おそらくもっとあるのでしょうが、医療情報サイトではその2件のみの情報しか掲載されていませんでした)。実家から松山までは70キロメートルほど離れており、鉄道でも車でもそれなりに時間もかかります。

そういう距離の問題はあるのですが、とりあえず母親にその松山の病院に一度父親と行ってみることを勧めてみました。しかしかかりつけの病院の医師に相談した両親は、その助言をもとに、遠くの病院で診察を受けるよりも地元の脳神経内科で診てもらうことを選択しました。MRIなどもしてもらったそうですが、診察の結果は「全く問題ありません」でした。私としても、地元の医師の診断で異常が見られなかったのに、それでもなお遠くの病院へ行くことを勧めることがためらわれる状況になってしまいました。

その後しばらくするうちに、症状はさらに進んだようです。父親は歩行障害や認知症様の症状も進み、自分で生活に必要なことをするのにも支障がでてきたため、デイサービスなどの申請についても市の担当者と相談を始めました。私たちにとって少し幸運が訪れました。私は見ていないのですが、NHKの情報番組、「ためしてガッテン」で特発性正常圧水頭症を紹介していたらしいのです。それを見ていた母親が、父親の症状があまりにも番組で紹介されていたものと酷似していることを納得し、遠く県庁所在地の病院まで行って再度診断をうけることにしたのです。

病院までは、両親がタクシーで1時間以上かけて行く必要がありました。初診ですが、朝一番に到着し、診察は午前中にすべて終了したそうです。医師の診察結果は「正常圧水頭症でまず間違いありません」というものでした。その日は金曜日でしたが、翌週の月曜から1週間入院し治療を受けることになりました。翌週入院し、火曜日にはさっそく腰椎穿刺で脳脊髄液を40ミリリットル抜き取り、圧力を一時的に下げるテストを受けました。私もその日の午後には病院までかけつけました。おそらく一つの医療処置でこれだけ症状の改善がみられる病気は他にあまりないかもしれません。父親は看護師さんに支えられてなんとか治療室へ行きましたが、脳脊髄液を40ミリリットル抜き取られて治療室から出てくるときにはすたすたと歩いて出てきたそうです。さらに、目は突然いきいきとして快活に人と話をするようになっていました。新幹線や特急を乗り継ぎ、遅れて病院に到着した私が病室のドアを開けると、そこにいた父親はまるで別人のようでした。いや、昔の父親のようでしたというべきでしょう。

結局、この入院で症状をさらに詳しく調べてもらい、後日再度入院し、恒久的に余分な脳脊髄液を腹腔に排出するためのシャント手術を受けました。現在、手術を受けて見違えるように元気になった父親は、歩行に関するリハビリも順調に進み、今では平気で歩き回るようになっています。

今回の診断と治療は、いくつかの幸運もありましたが、幸いうまく治療も進んでいます。しかし、もしかするとこのまま父親は近いうちに介護を受けることになっていたかもしれないと思うと、複雑な思いです。何しろ介護を受けるほどの症状になると、本人はもちろんのこと一緒に暮らす母親の生活の質さえもずいぶん影響を受けることになるのです。

特発性正常圧水頭症は認知症と診断される人の5%程度いるそうです。全国で250万人ほどいると言われる認知症患者の5%というと12-13万人ほどいることになります。65歳以上の高齢者の100人に一人ほどがこの病気を発症しているとも言われています。こうした多くの患者で症状の劇的なあるいは一部の改善がみられるとすると、この治療は人々にとっても大きなメリットがあります。今回私たちのケースでもあったように、この病気に対する医療従事者の中での知識や治療技術は、地方へ行けばいくほど不足していることでしょう。しかし、地方での高齢化率が高いことから、認知症は地方でも同様に深刻なのです。今後、全国レベルでこの病気に対する認識を深め、診断と治療の知識と技術を地方の津々浦々まで普及させることが、国民の生活をより豊かにし、医療コストの抑制という意味からも重要ではないかと思うのです。

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