Anxiety

入り組んだフィヨルドの地形の湾には冷たい海水が静かに音もなく漂(ただよ)っています。あたりは夕暮れをむかえ暗くなりつつある中、湾に面した道路を多くのひとびとがこちらに向かって歩いてきます。歩みは遅く、だれもが重たげに少しずつ静かに足を運びます。ひとびとの顔には豊かな感情はなく、これから起きるかもしれないことに漠然(ばくぜん)と思いをはせながら歩いているのかもしれません。その思いは、まるで歪(ゆが)んでしまった遠くの血の色をした夕焼け空の様子がもっともよく表しているように思えます。

1894年にエドヴァルド・ムンクは「不安」と題する絵画を描きました。彼は「叫び」と題する似たような構図の作品を書いているので、おそらくこちらの方が多くの人にはなじみがあるでしょう。彼自身が幼少期に虚弱(きょじゃく)だったことや母親や姉を結核で亡くしていたことなどから、ムンクは病気や死に対する漠然とした不安を抱いていたと言われています。そのようなことがこの作品にも強く表れているのかもしれません。

不安は、その原因や対象がはっきりしない恐れの感情を表すものです。以前紹介したような私のヘビに対する恐れは対象がはっきりしていますので恐怖といいます。それに対して、特に何を恐れているのかはっきりしないけれどもなんとなく心の中がざわついて毛羽立(けばだ)った感覚になるのを不安というのでしょう。

マウスを用いてこの不安を調べる研究があります。マウスが人のように不安を感じているかということは正確には分からないので、「不安様行動」と言います。以前紹介したオープンフィールドテストもそのような行動実験の一つです。マウスの場合にはムンクのように病や死を恐れるということはないので、むしろどこからか突然なんらかの捕食者(ほしょくしゃ)が出てくることへの恐れを調べることになるでしょう。このような恐れは食物連鎖の上位にいない動物にとっては生存上必須のものです。たとえば、マウスが日中にのんびり外を歩いていればあっという間に猫や猛禽類(もうきんるい)などの捕食者にとらえられてしまうでしょう。それに対して、暗闇(くらやみ)を、しかも大きなものに接するように移動して、捕食者の視覚(しかく)に入らないよう常に気をつけて行動することはより生存のチャンスを高めることにつながります。

しかし人の場合は、世の中で不安に思い始めると心配になることがあまりにも多くあります。先の病気や死ということはもちろんですが、それ以外にも日々の生活、将来の仕事、進路、家計の状況、恋愛関係、会社での人間関係、犯罪被害などなど。なんと不安の種は多いことでしょう。実際、不安が強くなり心理的障害にまで進み日々の行動にも影響してくる不安障害は、複雑なストレスにさらされる現代社会では非常に多い疾患の一つとなっているのです。本来適応的であるはずの能力が、それが生存のために適応的にあまり重要でない人において重い障害になっているケースが多くあるのです。

このような不安にかかわる遺伝的な仕組みを研究することはやはり重要なことだとあらためて思うのです。

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