チェルシー!

またまた長い期間、更新をせずに過ごしてしまいました。

他の人にそのことを指摘されると、何か時間がないことを言い訳にして逃げています。でも実際には時間がないということはなくて、少し考えるのが億劫(おっくう)になっているのだと思います。こんな記事でもいざ書こうとなるとああでもない、こうでもないと考えてしまいます。そういう気持ちのゆとり、というよりも気持ちの遊びの部分が必要だと反省しています。

一年と少し前に愛犬のリーズが去ってしまいました。それからちょうど一年後にチェルシーが去ってしまいました。チェルシーは15歳を目前にして旅立ったことになります。リーズもチェルシーも娘の春休みの期間中に死んでしまったのですが、おかげでその前後には娘たちも帰ってきてそばにいることができました。なんて家族思いの愛犬たちでしょう。



チェルシーは5カ月ほど病気で病院での治療(ちりょう)を受けていましたが、それでも何かと元気に過ごしていました。私はその間、夜はチェルシーと一緒に寝るようになりました。でもさすがに病には勝てずあるときから食事ができなくなりました。

食事がとれなくなってから二週間ほど家族が看病(かんびょう)のためつきそう日が続きました。チェルシーの身体がまだ元気で歩き回るうちは私も気持ちが楽でしたし、むしろずっと一緒にいるのを楽しく感じていたかもしれません。でもチェルシーが寝たきりになると、いろいろと命について考えてしまいました。

前回リーズの死について書いた際に、多くのペットの死と向き合ってきたことに触れました。でも今回はほぼ15年間全力で私と生活を共にしてくれたチェルシーの死であっただけに、その死と向き合うことは重いものでした。しかも2週間以上寝たきりになった状態での看病です。なんとなく自分の何かを一緒に徐々に失っていくような思いをしながら過ごした日々でした。

愛犬は全力で飼っている人に尽くします。一緒にいる、少なくとも起きている間は、私の注意をなんとか引き付けようとします。その愛犬がいなくなるときはなんと重いものでしょう。最後の瞬間はまだ大丈夫だろうと仕事に出た間に逝ってしまいました。娘がその時をしっかりとみてくれました。娘にも感謝です。

1か月半以上たった今、ようやくあらためて書くことができました。
チェルシーは今もどこかで投げたフリスビーを全力で追いかけているような気がします。

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