調和と自由について考える

動物の中には高度に調和(ちょうわ)した行動をするものがいます。たとえばイワシの群れで泳ぐ様子は圧巻(あっかん)で、その群れ全体が膨(ふく)らんだり縮んだり細くなったり太くなったり、さらには右に左に方向を変えるさまは、闇夜(やみよ)を飛び回るディメンターのようです。捕食(ほしょく)をしようと近づいた大型のサメなどがこのイワシの集団をうまく攻撃できないのもわかる気がします。また、ムクドリの大群も夕暮れの空に飛び回ることがあります。これほど高度に調和した行動でなくても動物はその社会の中にあってそれなりに調和した行動を示します。ニホンザルが群れで行動し、その群れの秩序を乱す個体がボスザルに群れを追い出される例も知られています。

このように、動物はそれぞれの生活する社会に応じて調和した行動を示します。それは、調和を守ることが生存か死に直結する大きな問題だからでしょう。群れを外れたイワシは容易にマグロなどの捕食者につかまり食べられてしまいますし、離れて飛ぶムクドリは猛禽類(もうきんるい)の餌食(えじき)となりかねません。先ほどのニホンザルの群れなどの例では、もっと行動に自由があります。多少群れと離れて行動しようが、多少おかしな行動をしようが、特に問題は生じないでしょう。しかし、それでも自由すぎて群れ社会の中で受け入れられない行動をとると先ほどのように自身にも群れにも害が生じて、追い出される状況になるわけです。このように、社会の中で自身の行動が受け入れられるようにふるまうことは、そこで生きていくための知恵でもあるし、社会が問題なく存続するための仕組みでもあります。

先日、日本の調査捕鯨(ちょうさほげい)が違法であると日本政府がオーストラリア政府に訴えられた訴訟(そしょう)で、国際司法裁判所(ICJ)は、調査捕鯨は科学目的とは言えないとして訴えを認める判決を下しました。2005年から年間最大で1000頭以上の鯨(くじら)を捕獲し、その肉は商業用に利用しているのですから科学目的とは言えないという判決も無理はありません。日本ではマスコミでも日本独自の食文化を守るべきだという記事も目にします。しかし、これには全く説得力がありません。世界ではそれぞれの国にこれまで独自の文化がありました。どれだけ多くの文化が、国際社会の中でそぐわないことで廃れてきたことでしょう。あえて個々の文化を出す必要もないでしょうが、人類は周囲の文化の中では野蛮だとか倫理的な問題などでこれまでに多くの文化を終わらせてきたのです。

随分前になりますが、1994年にオランダの友人の結婚式に招かれて訪問したことがあります。小さな村で行われたほのぼのとした結婚式でした。結婚式のパーティーを待っているときに、友人のお父さんとその友人が3人で立ち話をしていました。ときどきこちらを気にしているようですが、何しろオランダ語で話をしているので、何を話しているのか全くわかりません。やがてお父さんが私の方を向いて、「今国際捕鯨委員会(IWC)総会が開かれているけど知っているか?」と英語でいうのです。当時はちょうど商業捕鯨再開についての議論がなされていました。「日本はなぜ捕鯨をやめないんだ?」と聞いてくるのです。少し戸惑いましたが、「まだ捕鯨をやめようとはしていないでしょうね。僕はほとんど食べないけどね。」と返すしかありませんでした。当時はイギリスに住んでいましたし、インターネットの普及もまだまだの状況なので日本国内の様子も分かりませんでした。私が意外に思ったのは、このようなヨーロッパの田舎の村においてさえも、市民は広く捕鯨に反対しているということでした。

反捕鯨やイルカ漁に対する拒否反応は各国の政府の意見という意味合いではなく、広く市民の意見を吸い上げた上での方針です。もはや「日本独自の食文化を守る」という説明ではどの国も説得することは不可能でしょう。現在の状況では、このような食文化をこのままの状態で継続しようと主張し続けることは、大きな不利益だけを重ねていくことになります。国際的な感覚の中で今後どうするのが良いか考えていくことが必要な気がします。

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