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夢を求めてサハラの旅へ

先日、ブラジルの小説家パウロ・コエーリョの書いた「アルケミスト」という小説を読みました。アルケミストというのは錬金術師という意味です。 私の読んだこの本は文庫本ですが、もうずいぶん前に誰かが研究室に残していったものです。今の研究室の建物にに引っ越す前になりますからおよそ10年ほど前になりそうです。捨てるには惜しいと思い、私の本に紛れて保管したまま読みもせずに何年も積んでありました。先日出張の際に読む本に困って、これを持って行って読んだのですが、これがなかなか面白い本でした。 外の世界を見たいという願いをかなえるために農夫の父親に頼んで羊飼いになった少年は、何年も羊とともに旅をして暮らし、アンダルシアの土地のことの多くを学びました。あるとき少年は、夢をみます。エジプトのピラミッドへ行けば宝物が手に入るというのです。少年はジプシーの老女とセイラムの王様に予言を受けて羊を手放し、ジブラルタルを渡りモロッコのタンジェに行きます。道は分からないものの、そこからサハラを横切りエジプトまで行こうと考えたのです。そのタンジェで人に騙されて全財産を亡くした少年は、クリスタルの器の店で働き、知恵を使いながら良い仕事をしてお金を貯めます。そしてスペインに帰るか苦悩したあとでサハラを渡る決心をします。そうして夢を実現するための苦難のサハラの旅が始まるのです。 ストーリーはこの後はあえて書きませんが、夢と旅の物語です。小説を通して語られる言葉は非常に重みがあり、深く考えさせられます。 私が強くひきつけられたのは、以前にこのブログで触れたように、私もスペインからジブラルタルを船で渡ってタンジェに着き、そこからサハラを目指した経験があるからかもしれません。正確には、私の場合はタンジェからサハラを目指したのではなく、なんとなくそこで知り合った人たちとフェズまで旅をして、そこからサハラへ一人で行くことを思い立ったという点が少し違うのですが。 小説の中では、サハラを旅していく中で、砂漠の民との間で大変恐ろしい思いも味わうことになります。モロッコからエジプトまでのサハラの旅はとてつもなく長い道のりになります。とても実現できそうにない気の遠くなりそうな旅です。なにしろ地中海を縦断するのと同じ距離になるのですから。小説を読みながら、以前ブログでも紹介したミントティーをふるまってくれた少年...

坊っちゃん

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今朝(2012年9月16日)の朝日新聞の天声人語で夏目漱石の「坊っちゃん」の一文が紹介されていました。漱石の小説を読むといつもその文章の巧みさに感心するのですが、ここでもやはり光るものがあります。四国の松山に教師として赴任してきた彼が、ある日宿直の部屋が西日で暑いことに対して「田舎だけあって秋がきても、気長に暑いもんだ」というのです。天声人語は、この文章を残暑や自然災害への備えに続けるための導入に用いているのですが、今回は「坊っちゃん」自身について少し考えてみました。 数年前になりますが、やはり朝日新聞で丸山才一氏が[袖のボタン「坊っちゃん」100年]というコラムを書いていました。その中で「松山の人はこうまで坊ちゃんに馬鹿にされていったいどうしてここまで寛大なのか?」ということを述べられていました。私は出身が愛媛の田舎町ですし、松山にも住んだことがあるので、どちらかというとと言われる当事者に近いかもしれません。これと同じような疑問は耳にしたこともありますし、松山に住んでいる際に話題になったこともあります。 「坊っちゃん」を読んでみると、なるほどひどい言われようなのですが、松山に縁のある人間でも不思議と腹が立たないでしょう。これはなぜなのでしょうか? 市内から見上げる松山城 坊っちゃんは小説の中で、父と兄に嫌われ母親にも死ぬ直前に愛想をつかされるほどの滅茶苦茶な人物像を自身で語っています。そのような世間知らずの言動が特に改善される事も無く教師の職を得て松山にやってくることになるのです。松山に来ても言いたい放題なのですが、そこはあくまでも世間知らずのお坊ちゃんの言うことであり、軽く受け流すことが出来ます。これが、成熟した大人の石川啄木が小樽を「かなしきは小樽の町よ 歌ふことなき人人の声の荒さよ」と詠んで、いまだに市民が微妙な受け止め方をしていることとの大きな違いです。実際、松山では小説「坊っちゃん」にまつわるものが市内にあふれているのに対して、小樽では啄木のゆかりの地であるにも関わらず当初歌碑さえなかなかつくられなかったそうなのですから。 それでも、松山の人が坊っちゃんを愛する理由はそれだけでは不十分です。読み進むうちに、坊っちゃんの言動もまんざら間違っているとは言い切れないことに気づきます。その気持ちの裏には「兎角この世は住みにくい」と漱石...

英語によるコミュニケーションの重要性

前回の投稿から随分間が空いてしまいました。少し忙しくなると更新も難しくなるものです。 以前、マウスの雄が雌に対して発する超音波が相手をひきつける効果を持っていることを書きました。この超音波の働きは、しばしば言語のように例えられることがありますが、正確には行動における信号刺激のような働きをしています。実際に研究をしていて、いろいろな国で捕獲された野生マウスに由来する系統を用いてその超音波のパターンを調べてみると確かに系統ごとに特徴のあるパターンが見られます。またそのような特徴の一部が雌の探索行動を引き起こすためのシグナルのような働きをわずかながらも示しているという結果は得られます。しかし、そのような特徴的な超音波の効果はわずかであり言語に相当するような意味のある働きはみられません。 そういう意味で、やはり人の言語は特異な働きをしているのだと言えるでしょう。そもそも私たち人に心があるのは言語があるからだともいえます。仮に言語の概念がなくなったとすると私たちにはさまざまな問題が生じてきます。自分は何者なのか全くわかりませんし、説明づけることもできません。なぜなら他人との関係において私たちは何者かが分かるからです。「親」は、「昔、自分のそばにいてくれて、いると安心できた存在」という認識になります。「友人」は「近くにいる遊び相手」という認識でしょうか?「別れ」は「いつも一緒にいたものが一緒にいなくなるということ」になります。これでは将来の自分や他個体との将来における関係を予想するのはできません。そのため、人特有の豊かな心というものは言語なしではうまれてこないのです。 最近、コミュニケーションツールとしての言語の重要性を改めて感じます。特に、国際性という意味においてです。ここのところ続いている東アジアの近隣諸国との問題も普段のコミュニケーション不足が大きな原因となっているのではないかという気がします。もう少し密にコミュニケーションをとれるとこのような問題もソフトに対応できるのではないかと思います。 研究には世界中で得られた研究成果を土台として行うことが必要になります。また、そこで得られた発見も国際的に発表するということが求められます。そういう意味において、研究には国境はないということも言えます。実際、私たち研究者は外国の研究者と頻繁に情報交換をしたり、海外に出かけ...

マウスオリンピック

現在ロンドンオリンピックをやっています。連日熱戦が繰り広げられていて普段見ない競技も見ることができるので面白く思います。いわゆるマイナー競技とよばれるものも、それはそれで見ていると面白いものです。昨日行われていたアーチェリー、とてもアスリートとは思えない体格の人が出ていますが、その的を繰り返し射る正確さはやはり並ではありません。 スポーツは基本的に個人個人、あるいはチーム同士が競い合うものですが、その勝敗にことさら国名が強調されるのもオリンピックの特徴です。報道を見ていると表彰式から数日もたってくると誰が優勝したかではなく単なるメダルの数の一つとして報道されるのも気にかかります。 話しは変わりますが、この研究所には世界各地で比較された野生マウスに由来する系統がいます。出身地はカナダ、フランス、デンマーク、ブルガリア、中国、韓国、日本、台湾、タイなどです。こうした野生由来マウス系統の特徴は遺伝的にそれぞれの大きく異なるために、その行動も系統ごとに顕著に違うということです。 もっとも長時間にわたって動き続けるのはデンマークのNJLと韓国のKJRです。メスでは活動量はKJRの方が若干高いので金メダルは韓国、銀メダルはデンマークでしょうか?短距離走ではどうでしょうか?瞬発力があってとても捕まえにくいのは台湾のHMIとカナダのPGN2でしょうか?速さではHMIに軍配が上がるような気がします。金メダルは台湾で銀メダルはカナダにしましょう。ジャンプ力は圧倒的にカナダのPGN2でしょう。通常のコンテナの中では下手をするとジャンプして逃げられそうになることもあります。金メダルはカナダに送りましょう。体操競技があるとすると、やはり一番は伸身月面宙返りのような技をケージの中でやっているNJLがトップでしょう。金はデンマークに。辛さに対する我慢比べではどうでしょうか? ここまででメダルの数は以下のようになります。 デンマーク 金1 銀1 カナダ 金1 銀1 台湾 金1 韓国 金1 まだ日本にメダルがありません。 以前紹介したように、韓国のマウスはKJR系統、SWN系統ともに辛み水溶液をよく飲みます。でも日本のMSMもよく飲みます。もっとも高い濃度の辛み水溶液は、オスで日本がかろうじて金、韓国が銀メダル、メスは韓国が金、日本が銀の引き分けというところです。そん...

フェルメールについて思うこと

最初にお断りしますが、今回は行動遺伝学は全く関係ありません。 今、巷ではヨハネス・フェルメールが人気です。言うまでもないことですが、上野の東京都美術館でマウリッツハイス美術館展が開催されているからです。 フェルメールの絵を最初に見たのはアムステルダム国立美術館でした。もう20年ほど前のことになるでしょうか。それまで全くフェルメールの絵を知らなかったのですが、ひときわ人だかりのしている絵がありました。女中から手紙を受け取る女性を描いている絵で、その人だかりは英語でのガイドツアーのグループでした。近くで何気なく説明を聞いてみると、その計算しつくされた優れた構図とモデルを包み込む柔らかな光の美しさについて説明していました。なるほど、窓から入り込む光は部屋の中で様々な方向に広がり、壁にあたった光はまた反射してモデルの背後から緩やかに包み込むように見えます。光のそのさまざまな反射の様子が絵を通して見えてきて、まるでフェルメールは光を描くために絵を描いているのでは?と思うほどでした。 その後、オランダのハーグを訪れる機会があり、マウリッツハイス美術館に行ったことがあります。今回日本に来ている「真珠の耳飾りの少女」もその時にじっくり見ることができました。本当に不思議な絵です。美女の絵として有名なレオナルド・ダ・ヴィンチの「モナ・リザ(ルーブル美術館蔵)」が魔性の女性のように見るものから何かを吸い取ってしまいそうなただならぬ雰囲気を漂わせているのに対して、このフェルメールの描いた少女はあくまで見るものと同じ空気を呼吸し、心を通わせる雰囲気を漂わせています。それでいて触れることのできない崇高さも同時に見せています。左上から差し込む光は一部が少女の肌を通り抜け、残りは顔にまとわりつきつつ陰になる部分へと伝わっていくようです。 このように左上から差し込む光はフェルメールがその絵の中でよく使うものです。なぜ左上なのか、私にとってはそれが不思議なのですが、なんとなく右上から差し込む光よりも心が柔らかくなるような安心感がある気がします。 私にとってフェルメールの絵の最大の魅力は、対象とする人物や物に境界がないことです。「真珠の耳飾りの少女」をよく見ると、その美しい肌と空気の境界は、濃密な光があふれてどこまでが肌でどこから空気なのかはっきりしません。それは対象物の輪郭に濃い線...

子ザルの写真を見て思うこと

先日、朝刊を見ているととても面白い写真が目に留まりました(朝日新聞7月3日 声欄)。「花園」というタイトルの写真(中塚正春氏撮影 「日本の自然」写真コンテスト)ですが、子ザルがお花畑の中で花にそっと手を添えて花を見ているように見えます。まるで子ザルがその花を愛でているようです。あるいは匂いを楽しんでいるようにも見えます。一瞬を切り取る写真が、たまたま花に手を添えた瞬間の子ザルを撮ることで、子ザルにも花を愛する人のような心があるようにみえてしまうその面白さがこの写真の特徴でもあります。その子ザルは人よりも人っぽく見えてしまうのはこの写真家のうまさによるものかもしれません。 さて、この写真を見た多くの人は、「わっ この子ザルかわいい!まるで人みたい!」と思うことでしょう。あるいは、本当に子ザルには花を愛する心があると思ってしまう人も一部にはいるかもしれません。このような写真の場合、どのように感じるかということは見る人にゆだねられているのだと思います。 ところが、サイエンスの中の話しとなると状況は異なってきます。マウスの行動などを研究していると、そのマウスの振る舞いを人の行動に対応づけたくなる状況にしばしば出会います。しかし、そういう解釈を容易に実験結果に加えて発表してしまうと、ほとんど創作のようになってしまいかねません。私たち研究者は行動を科学的に追求しているという点において、そのような解釈をくわえるためにはそれに必要な十分な検討を加え、さらにそのことを示すための追加実験も加えて発表することが求められます。昨今、インパクトを上げるためだけに容易に擬人化をして発表しているケースも見られます。またマスコミでの取り上げ方もそれを増長させるような取り上げ方が頻繁にみられることも気になります。 一方で、研究者の多くはこのような動物を用いた実験を行いながらもヒトのことをよく知りたいと思いつつ研究をしていることでしょう。私たちはそのような思いは大事にしつつも、冷静に注意深く研究をする必要があるのだと、この子ザルの写真をほほえましく見ながらあらためて思ったのでした。

アンチエイジングについて

先日、柳田充弘先生が研究所でセミナーをされました。最近のお仕事を全く存じ上げなかったのですが、現在も精力的に新しい分野での研究に取り組んでいらっしゃることを知り、優れた研究者の飽くなき追求心の迫力に脱帽しました。研究の内容は細胞周期などのお話しかと思いきや最近興味を持って研究をされている老化の問題に関するものでした。柳田先生ご自身が70歳を超えていらっしゃるので、歳をとっても第一線のアクティビティーを維持するようにするにはどうすればいいか生物学的な観点から知りたいものです。 そういえば最近、歳をとりながらも第一線で活躍される方の話題を耳にすることが多くあります。ちょうど今、ウィンブルドンテニスをやっていますが、先日はクルム伊達公子選手がシングルスに出ていました。第一セットは順調にゲームをとっていて、このままいくと楽勝かという気もしました。しかし、第一セットの終盤で相手に粘られ始めました。足の怪我もしていたそうなので、できれば第一セットを簡単に取りたいところでした。確か、一回目のセットポイントをとれば疲れもためずに第二セットに臨むことができたはずですが、そのポイントを相手のスーパーショットか何かで落とし、結局そのゲームを粘られて落としました。その後ゲームを重ねて、苦しい接戦のあとにようやく第一セットをとる結果になってしまったと思います。一回目のセットポイントに失敗した後、みるみるうちに疲労をためていった様子がテレビで見ていてもよくわかりました。テニスというのは奥の深いスポーツです。わずか一つのプレーが試合全体を左右することもあるのですから。結局この試合はセットカウント1-2で負けてしまいました。 その伊達選手は現在42歳でしょうか?一度引退したあとに40歳を前にして復帰し、こうしてウィンブルドンで活躍しているのですからたいしたものです。伊達選手については、1992年のウィンブルドンを留学中に見に行った際に実際に試合を見たことがあります。まだ伊達選手が国際舞台でよく知られる前でした。ウィンブルドンというとセンターコートやファーストコートなどをテレビで目にしますが、シードされていない選手の多くは、一応芝のコートではあるもののその周囲を観客が囲んで立って見学しているようなコートで試合をしたりしています。友人が「ツヨシ、デートという日本人が試合をしているよ」と言ってき...