フェルメールについて思うこと

最初にお断りしますが、今回は行動遺伝学は全く関係ありません。

今、巷ではヨハネス・フェルメールが人気です。言うまでもないことですが、上野の東京都美術館でマウリッツハイス美術館展が開催されているからです。

フェルメールの絵を最初に見たのはアムステルダム国立美術館でした。もう20年ほど前のことになるでしょうか。それまで全くフェルメールの絵を知らなかったのですが、ひときわ人だかりのしている絵がありました。女中から手紙を受け取る女性を描いている絵で、その人だかりは英語でのガイドツアーのグループでした。近くで何気なく説明を聞いてみると、その計算しつくされた優れた構図とモデルを包み込む柔らかな光の美しさについて説明していました。なるほど、窓から入り込む光は部屋の中で様々な方向に広がり、壁にあたった光はまた反射してモデルの背後から緩やかに包み込むように見えます。光のそのさまざまな反射の様子が絵を通して見えてきて、まるでフェルメールは光を描くために絵を描いているのでは?と思うほどでした。

その後、オランダのハーグを訪れる機会があり、マウリッツハイス美術館に行ったことがあります。今回日本に来ている「真珠の耳飾りの少女」もその時にじっくり見ることができました。本当に不思議な絵です。美女の絵として有名なレオナルド・ダ・ヴィンチの「モナ・リザ(ルーブル美術館蔵)」が魔性の女性のように見るものから何かを吸い取ってしまいそうなただならぬ雰囲気を漂わせているのに対して、このフェルメールの描いた少女はあくまで見るものと同じ空気を呼吸し、心を通わせる雰囲気を漂わせています。それでいて触れることのできない崇高さも同時に見せています。左上から差し込む光は一部が少女の肌を通り抜け、残りは顔にまとわりつきつつ陰になる部分へと伝わっていくようです。

このように左上から差し込む光はフェルメールがその絵の中でよく使うものです。なぜ左上なのか、私にとってはそれが不思議なのですが、なんとなく右上から差し込む光よりも心が柔らかくなるような安心感がある気がします。

私にとってフェルメールの絵の最大の魅力は、対象とする人物や物に境界がないことです。「真珠の耳飾りの少女」をよく見ると、その美しい肌と空気の境界は、濃密な光があふれてどこまでが肌でどこから空気なのかはっきりしません。それは対象物の輪郭に濃い線を描き、その対象物の存在感を強調させるセザンヌとは全く対照的です。まるでフェルメールは、人物と空気、衣服と人物、それに人物の中と外部には明確な境界がないことを訴えているように感じます。このような彼の絵画の特徴は、同じマウリッツハイス美術館に所蔵されているフェルメールの絵画で、オランダの至宝とも言われている「デルフト風景」で極められているように思います。デルフトの町並みを川の対岸から眺めたものですが、朝日に照らされる遠くの家々の屋根は明るく光を反射し、手前の家々は濃い雨雲の影となり薄い光に照らされています。川に浮かぶ船は影となり、その水面との境界がぼやけて見えます。この連続性こそフェルメールの追い求めていたものではないかと思います。

「真珠の耳飾りの少女」(私には真珠には見えませんが・・・)に会いに上野まで行ってみたいですが、やはり混んでいるのでしょうか。

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