山々を早く歩くこと

研究施設でマウスを飼育しているそのケージはたかだかヨコ22センチ、タテ32センチ程度の大きさで、マウスにとってはそこがすべてです。そのためあまり活動できないように思うかもしれませんが、実際にはそれでもかなり動き回っています。夜行性のマウスは昼間はほとんど休んでいて夜になると盛んに活動するようになります。そこで何をするかはさまざまですが、おおよそ床を走り回ったり、ケージのふたにぶら下がって動き回ったりしています。ほとんどが目的のない行動にも見えて、まるでエネルギーを消費することのためだけに動いているように思えます。

私の特技は山を早く歩くことです。どれぐらい早いかというとかなり早いようです。以前外国から研究者が来た際に箱根の山歩きに案内しました。彼はアフリカのキリマンジャロに登ったことがあると聞いていたので、日本の山の良さも味わってもらおうと思ったのです。その際に研究室のメンバーも山歩きに同行しました。さすがにキリマンジャロの経験もある彼は平気だったのですが、話しながら尾根を歩き続けているうちに彼が言いました。
「僕は平気だけどね、後ろも見た方がいいよ」
後ろをみると、そこには遅れてついてきていたラボメンバーの刺すような視線がありました。

山歩きも、目的のはっきりしない、なぜ歩くのか説明のしにくい行動です。それがいいところなのでしょう。

16年ほど前になりますが、留学中に夏の休暇をとり、スイスのツェルマット(Zermatt)というところで10日間ほど滞在して山歩きだけを毎日繰り返したことがあります。あのマッターホルンのふもとの村です。小さな村ですが夏場は観光客がたくさん訪れて、大変にぎわっています。そうした観光客が宿泊するための落ち着いたホテルもたくさんあります。スイスは物価が高いのでホテルに宿泊するとけっこうな値段になるでしょうが、私の場合は民家の部屋を借りて比較的安く過ごすことができました。村内は自動車の乗り入れが禁止されていて、かわりに電気自動車や馬車が走っているだけなので、空気もとてもきれいですし、家々の窓にはゼラニウムなどの花が咲き乱れておりとても美しい過ごしやすい村です。

そのツェルマットは高度1600メートルほどのところにあり、村の周囲は4000メートルを超える山々に囲まれています。さすがに山を観光資源にしているだけあってそうした峰々を目指すハイキングコースがよく整備されています。スイス政府観光局のウェブサイトによると、そのツェルマット周辺のハイキングコースの総延長は400キロメートルに及ぶそうです。もちろんかの有名なマッターホルンやスイスの最高峰モンテローザなどのように十分な登山技術を持ち合わせていないと登れない山もありますが、オーバーロートホルンのようないくつかの3000メートルを超える山は高地をあるくトレッキングの延長で登ることができます。村でハイキングコースのマップ(その名もWanderkarte:ハイキングマップとでもいうのでしょうか)を購入して毎日違うコースを歩きました。朝起きると近くのスーパーへ行き、リンゴ、ミネラルウォーター、パンとチーズ、それに多少のチョコレートなどを購入します。それらをザックに詰め込み地図で選んだコースを目指し、また帰ってくるという毎日です。芯も食べることができるヨーロッパのリンゴは、ごみが残らないので便利です。


マッターホルンとツェルマットの村

有名な観光地なのでケーブルカーや登山鉄道が整備されていますが、それらをできるだけ使わないで村から山々を目指してひたすら歩くのです。相当の距離と高度差を歩くことになります。目安としては午前中は往路で、ランチをとって、さらに少し歩き、そしてできるだけ違うコースを選んで帰路に着くという感じで毎日ひたすら歩きました。一人で黙々と歩くので楽なところは早足で歩きます。多くのハイキングコースは距離もあるので、早く歩かないと目的のコースを回りきれないということもあります。ある日向かったマッターホルンの中腹には山小屋(Hörnlihütte)があり、頂上にアタックする登山家は、そこに泊り早朝から山に登ります。その山小屋まではケーブルカーなどで近くまで行くこともできますが、私は歩いてその山小屋まで行き、そこからマッターホルンを見上げてそのあまりにも急な斜面に唖然としたことを覚えています。そして斜面に恐れを抱いたままふたたび村への帰路についたのでした。

滞在中に、「山小屋に宿泊しないままこのツェルマットを離れるのは面白くないなあ」と思いたち、遠くにある山小屋に一晩泊まることにしました。地図にある中の一つのハイキングコースの終点にある山小屋Rothornhütteです。部屋を借りている民家の人に一晩帰らないことを伝え、朝いつものスーパーマーケットに行って二日分の食料と水を買い込みました。それから山小屋を目指したのです(民家の主人は律儀にその日の宿泊代をとりませんでした)。どのハイキングコースも同じですが村から少し登って標高2000メートル程度になると樹木がなくなりアルプとよばれる牛の放牧地になります。そこがとても美しいのです。ところどころに大きな牛がいたりしますが、不釣り合いに大きなカウベルをつけてゴロンゴロンという音をたてながらこちらをじっと見たりしています。そのような高いところまで来ると4000メートル級の峰々がよく見えるようになります。さらに標高が高くなると牧草もなくなり小石の多い乾いた道にかわります。そのような道ではところどころにエーデルワイスが道端に咲いていたりします。表面にうすくうぶ毛が生えているようなやわらかな感じの植物は、乾いた生命の少ない大地の中で、ハイカーをほっとさせてくれるものです。さらに登ると氷河が出てきます。氷河は、そのアルプスを歩いていてもっとも強い印象を受けたものです。山の谷間部分を埋め尽くすその巨大な氷の塊はどれだけの年月をかけてつくられているのだろうと思うと人が圧倒されるような迫力があります。このコースとは違うところにあるゴルナー氷河は巨大で、その上にたつと厚い氷のところどころが深くさけてそのクレバスの下を解けた冷たい水が激流となって流れてゆくのが見えたりします。その1994年当時でも年々ものすごい勢いで氷が減少しているという話を聞きました。もしかすると多くの氷河はすでにかなり後退しているかもしれません。

長い距離をひたすら歩き続けて午後に山小屋に到着しました。宿泊手続きをして夜には食堂でたくさんの客と一緒に食事をしました。ほとんどが近くの山に登るために来ている人たちです。食堂でワインを飲みながらいろいろと話をしました。夫婦で山登りに来ている人と話をしましたが、その人たちが「あなたはどこが目的なの?」と聞いてきました。明日、どの山にアタックするのか?という意味でしょう。少し困って、僕の目的はここだよ。明日はツェルマットに帰るのだと説明しました。内心、登山をするために山小屋に来ているその人たちが少しあきれているのではないかと心配しました。早目に狭い寝床に入りましたが、早朝の3時か4時ころには皆が起き始めて準備をして出ていきました。私は続けて朝までひたすら寝ることにしました。

こうして毎日毎日歩き続けるのはもちろん歩きながら見る風景に自分の心が感銘を受けるからできることでした。毎日村に帰るころにはへとへとに疲れ果てても翌朝またスーパーにパン、チーズにリンゴとミネラルウォーターを買いに向かえるのは、その心が揺さぶられるような風景があるからでした。そう思うと、毎晩走り続けるマウスたちが何を思って活動しているのだろうと思ってしまうのです。

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