旅をするということ

マウスには遺伝的に異なる系統というものが多数存在するのですが、系統の違いは、人でいうなれば個人差を見ているようなものです。系統を比較することで人の個人差に相当するものを調べようとしているのです。

私たちの研究で行っている実験の中に、オープンフィールドテストという行動テストがあります。このテストでは、60センチメートル四方の四角いふたの無い塩ビ製の箱を用いるのですが、この箱は白っぽい色に加えて照明もついているため、夜行性で狭い場所を好むのマウスにとってはこのようなオープンフィールドは比較的苦手な環境になります。しかも、実験に用いるマウスは、このオープンフィールドを生れてから一度も経験したことがないのです。さて、実験ではマウスを1個体だけケージから取り出し、そっとオープンフィールドの隅におきます。それからそのマウスがどのように行動するかを観察するのです。多くの研究者が観察する特徴は、オープンフィールドのどこに滞在してどれだけ移動するかということです。

オープンフィールドテスト

こういうテストをすると、臆病な性質のマウスは、フィールドの隅でじっと動かなかったり、歩いたとしてもフィールドの壁のすぐ内側に沿って歩いたりします。一方、あまり臆病でないマウスはフィールドの中央を平気で横切ったり、あちこち探索したりします。このような行動の特徴はマウスの系統の特徴として比較的再現性良く見られます。詳しい説明はここでは控えますが、こうしたマウスの臆病さには多数の遺伝子が関っていることがわかっています。そのため、遺伝的に雑多なマウスの集団をつくると、大半の個体はわりと普通の臆病さですが、常にある確率で非常に臆病なマウスが生まれてきたり全くそれとは逆の性質のマウスが生まれてくるのです。

こうした臆病な行動はもちろんマウスに限ったことではありません。前回ここで紹介したコッカースパニエルのチェルシーはかなり臆病です。基本的に散歩は苦手です。おそらく、散歩に出るとあまり知らない犬に出会うし、猫ににらまれたりするので外は苦手なのでしょう。オープンフィールドのマウスのような行動も示します。散歩中、道路の真ん中を歩くよりも塀に沿って歩くことを好みます。人だって動物のことを笑っていられません。広い会場に人が集まるとき、多くの人が壁に沿って立って待っているのに心当たりはありませんか?

こうした、新奇の場所に出ることを好んだり逆に嫌ったりする性質は、その両方共が動物にとって種が存続してゆく上で重要な要素です。マウスはインド中東地方から世界にその生息域を広げてきたと考えられています。その際、集団の中には今いる場所にとどまるものと新たな住処をもとめて旅立つものの両方が必要になります。すべての個体が同じ場所にとどまると、餌や交配相手の競合が生じます。その一方ですべての個体が旅立つと、集団全体が外敵などによる高い捕食のリスクにさらされることになります。このように遺伝的に多様な集団は、常に移動型個体と滞在型個体を作り出すことで種の存続のチャンスを高めているのです。その一方で、遺伝的な多様性が減少し、多様な個体を作り出すポテンシャルを失った集団は、さまざまな異なった生存戦略をとる個体を作り出すことができず、その生存が困難になってくるのです。

私は旅をすることが好きです。今はあまりしませんが、若いころはよく旅をしました。つまり移動型です。特に好きなのは、地図をみてここへ行きたいと思う場所を目指して旅をすることです。今から18年ほど前、イギリスに留学中にポルトガルを一人で旅したことがあります。時期はちょうどクリスマスから新年のころ、ヨーロッパの人々が家族と一緒に過ごし町が静まりかえるころです。まずリスボンに行き、そこで滞在したのちに目指したのはサグレスです。サグレスはユーラシア大陸の最南西端の地になります。地図でみると、その大西洋に突き出た地形が私には何とも魅力的だったのです。リスボンからバスに乗り、途中の町で一晩泊り、ようやくユーラシア大陸の果てにたどり着きました。クリスマスの時期だったせいもあるでしょうがとても静かな町で、そこから見える大西洋の海は深い青に染まっていました。そこでたまたま同年代の青年に出会いました。私が海岸で海を見ていたところ、近くにきてくれて、どちらからともなく話しかけたのだと思います。

私:やあ。
青年:どこから来たの?
私:もとは日本だけどここへはイギリスから。今はイギリスに住んでる。
青年:へえ。遠くから来たんだね。
私:イギリスは行ったことある?
青年:ないよ。外国には行ったことない。町から出たこともないよ。
私: ・・・町から出たこともないの?リスボンにも?
青年:ないよ。
私:いつも何して過ごしているの?
青年:海岸でこうして過ごしてるよ。魚を釣ったり。楽しいよ。
私:そうだね。でも飽きたりしないの?よそに行ってみたいとか思わない?
青年:ううん。ここにいるのがいいな。
私:ふーん。

だいたいこんな会話をしたことを記憶しています。サグレスの町でとどまり続けることに幸せを感じている青年に私はとても好感を持ったのでした。ポルトガル人はかつて大航海時代に世界の七つの海を旅した民族ですが、その中にも滞在型の人がいて、その国を支えているのです。今でも時々思い出して、彼は今でも町以外の地を見ることなく生活をしているのだろうかと考えたりすることがあります。

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