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オックスフォードで思う

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先日、オックスフォードに行ってきました。イギリスに行くのは実に久しぶりのことです。飛行機の乗り継ぎの都合で立ち寄ったことは数年前にありますが、実際の訪問は10年ぶりほどになるかもしれません。今回は、大学院生の学生とともに、オックスフォードのWellcome Trust Center for Human Geneticsで共同研究をするために訪問しました。研究の話はさておき、今日はその際に思ったことを書いてみたくなりました。そういえばブログの更新(こうしん)はずいぶん久しぶりです。 オックスフォードでは訪問先のジョナサン・フリント教授がマートンカレッジのフェローのためのゲストルームを予約してくれましたので、滞在中はそこで宿泊しつつ仕事をしました。マートンカレッジは創立(そうりつ)750年を迎えるということで、それを示す看板(かんばん)も出ていました。750年前というと日本では鎌倉時代(かまくらじだい)でしょうか?気が遠くなるような時間です。私たちが宿泊していた建物が建てられてからどれだけの年数がたったかは定かでありませんが、その古い建物はとても重厚でこれまでにどれほどの著名人を輩出してきたかと考えると気が遠くなりそうです。 朝になり外に出てみると、まだ夜の気配が少し残る中にカレッジの建物が静かにそこに佇んでいました。窓の中には古い図書室が見えます。この朝早くから中では書物を調べている人も見えます。ずいぶん古い図書室です。このマートンカレッジには創立時から存在するオックスフォード最古の図書館があるそうです。この図書室はさすがにそこまで古いものではないでしょうが、それにしても歴史を感じさせるものです。 朝食は、マートンカレッジのフェローが朝食をとる部屋で一緒にとりました。それほど多くのフェローが来るわけではありませんでした。どのような事情でフェローがここで朝食をとるのか、その理由はよくわかりませんが、わずか数名がやってきて各々が簡単にパンやコーヒーなどで朝食を済ませて帰っていくようでした。私たちは朝の挨拶をしながら自分たちの食事を済ませるようにしていました。最後の朝には、韓国人の教授と少し話をしました。時々韓国にも帰ることがあるようですが、ここで数学の教授をしているそうでした。滞在したのはわずかに3日程度で、あまりじっくりと生活できたわけで...

アストン・ヴィラ

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私の自宅では2頭のコッカースパニエル犬を飼っています。どちらもメスですが、名前はリーズとチェルシーといいます。これらの名前の由来は、サッカーファンなら気づく人も多いでしょう。ともにイングランドのサッカーチーム、リーズ・ユナイテッドAFCとチェルシーFCから名前をもらったものなのです。リーズ・ユナイテッドAFCは現在は下部リーグでプレーをしていますが、過去には3度イングランドリーグ制覇(せいは)をしたこともある古豪(こごう)です。チェルシーFCは、2003年にロシア人の大富豪(だいふごう)であるアブラモビッチ氏が買収(ばいしゅう)したことにより豊富な財力(ざいりょく)を持つチームとなり、その後は常にイングランドプレミアリーグの上位にいるようになったため現在では有名なサッカーチームです。でも、犬にチェルシーという名前をつけたのは、このように買収されて世界的にも有名なチームになる前なのです。 Chelsea (left) and Leeds では、私がこの二つのチームが好きかというと、実はそうでもありません。犬の名前としてつけた理由は、イギリスのサッカーチームの名前を犬の名前として挙げていく中で家族に認められた名前がこの二つのチームだったということです。私は、現在ではあまりイングランドのサッカーチームの試合を見ることがないので、イギリスに住んでいた1992年から1995年までのシーズンの記憶(きおく)しかありません。そのかなり前の記憶の中で、リーズ・ユナイテッドはとても激しく走って厳しく相手とあたりタフなサッカーをするイメージがありました。いわゆるイングランドサッカーと言われたタイプです。チェルシーFCに関しては正直なところそのころの記憶があまりありません。でも、それにもかかわらずリーズとチェルシーってかわいい名前ではないでしょうか。 では私が好きなチームはどこかというと、一つは一度試合を見に行ったこともあるロンドンのアーセナルFC,です。でもこれはイギリスでも北部のマンチェスター・ユナイテッドFCやリバプールFCと並んで世界的に有名なビッグクラブなので驚きではないでしょう。アーセナルはさすがに犬の名前として家族に認めてはもらえませんでした。もう一つはアストン・ヴィラです。「アストン」も犬の名前としては微妙(びみょう)な雰囲気(ふんいき)の名前なので、...

富士山の顔

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三島に住んでいると富士山はとても身近な山です。この町のすぐ北側に位置する富士山はさすがに大きく見えて、見るたびにため息をつきます。澄んだ日にははっきりと大きくその全容を見せてくれて、霞(かすみ)のかかった日にはぼんやりとその霞の向こう側に巨大な存在を感じさせてくれます。 その富士山が昨日、ユネスコの世界文化遺産(せかいぶんかいさん)に認定されたそうです。その世界文化遺産という制度そのものには人それぞれの考え方があるでしょうが、やはり富士山が「顕著(けんちょ)な普遍的価値(ふへんてきかち)」を有しており貴重(きちょう)な文化的財産だと国際社会の中でも認められたことはうれしいことです。今後はその山の自然はもちろんですが、富士山にまつわる様々な歴史的文化を後世に残すことがより一層強く求められるので、それなりの覚悟も必要でしょう。たとえば、以前のように無断で廃棄された大量のごみがあったり、観光客が多くなるからと商業主義に走り、景観(けいかん)を損なう開発をしたり建築物(けんちくぶつ)を建てることも許されないでしょう。以前、富士山の頂上に登った際に、そこにあるお土産物屋の品のなさにがっかりしたことがありますが、そういう点にも十分配慮してほしいものです。 ところで、この富士山は冒頭(ぼうとう)に書いたように多様な姿を私たちに見せてくれます。極端にいうと毎回見るたびにその富士山が違って見えます。私はこれまでにもそのさまざまな富士山の顔を見るたびに写真におさめてきました。 せっかくですので、祝世界文化遺産決定ということで、写真を以下に掲載します。シリーズ、「本日の富士山」です。

サルスベラズ

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野生動物との出会いはしばしば緊張感のある刺激的なものとなります。 けさのことです。犬たちが庭に向かってやたらと吠えているので見に行くと、目の前のハナミズキに彼はいました。ニホンザルの雄です。うちの犬も吠えるはずです。文字通り犬猿(けんえん)の仲なのですから。掃き出しのガラス窓を隔てて5メートルほどの距離でしょうか。ずいぶん近くに見えました。私の家は箱根(はこね)の山がなだらかに三島のまちにさしかかるその切れ目のところにあるため、冷静に考えればサルが出没するのは不思議なことではありません。 とりあえずその姿を記録しようとカメラを取りに2階に上がり、再びその窓に戻ってきました。危惧(きぐ)したとおり彼はハナミズキから消えていました。それでも、朝日が庭の芝に映す影で彼が家の上に向かって移動している様子がわかりました。娘も出てきて、二人でそろそろと庭に出てみました。 すでに彼は隣の建築中の家へと移り、その周りを取り囲む足場を登ろうとしていました。するすると登ると最も高い見晴らしのいいところにつかまりました。こちらからは娘と二人で興奮しながら写真を撮影(さつえい)しようとカメラを向けています。すでに距離は15メートルほどあるでしょうか。わいわい言いながらカメラを向けられている彼はそれが気にいらないのでしょう、不機嫌(ふきげん)そうに顔だけこちらに向けて私たちのようすを見ています。 やがて、ポールをつかみ、その足場を激しく揺らしました。自分はちからがあるということを誇示する行為です。ひとしきり思いきり揺らした後で、再びこちらのようすを見ています。まだカメラを向けていると、明らかに気にいらないいらだちが身体からあふれ、そしてからだをほんの少しこちらに向かってひねりました。攻撃してくるのかもしれません。慌てて娘と一緒に家の中に逃げ込んでガラス窓を閉めました。その数秒後、彼は庭の木にざっと音をたててのぼりました。それは冬の間に枝の剪定をして幹だけが残り、そこにようやく若芽が伸び始めているサルスベリの木です。まったくすべっていないのに感心していましたが、そういう私の気持ちも察することなく枝につかまり家の中をにらんでいます。その距離約3メートル、さすがに迫力があります。それでもガラス越しに見ているこちらが気に入らないのでしょう。今度は窓の枠につかまりガラス越しに家...

Forget me not

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1週間ほど前にとても悲しい知らせが届きました。 イギリスのケンブリッジでのポスドク時代にスラニー教授の研究室でテクニシャンをしていたシーラさんが亡くなったのです。 すでに帰国してからかれこれ18年たっています。彼女も少し高齢になっていたでしょう。わたしにとっても遠い思い出になっていますが、それでも訃報(ふほう)を聞いた途端(とたん)に彼女とともに研究室で過ごした楽しい思い出が一気によみがえってきます。 研究室ではだれかれとなく声をかけていろいろと話しをしてくれました。特に私のように外国からきて英語でも苦労しているメンバーにはわかりやすい英語でことさら頻繁(ひんぱん)に話しかけてくれたような気がします。それは彼女なりの気配りとやさしさだったのではないかと思います。 彼女は毎朝みんなのためにコーヒーを入れてくれました。研究室に入るなり自分のマグをもってシーラの入れるコーヒーをもらい、それを口にした後ほとんどの人が「ふーっ」と息を出しながら頭を一振りします。「シーラの5モルのコーヒー」と呼ばれるそれはとても濃いのです。 シーラは研究室で行われる受精卵(じゅせいらん)や初期胚(しょきはい)の操作(そうさ)を一手に担う魔法(まほう)のような手をもった人でした。スラニー教授の研究で行う難しい胚操作の必要な実験も彼女の手により生み出されたものです。誰も彼女の技術(ぎじゅつ)をまねることはできなかったと思います。しばらく彼女についてまわって胚操作の方法を教えてもらったことがあります。「胞胚期胚に3か所からマニピュレーターを使って穴を開けるのはむつかしいのよ」となんだか魔術(まじゅつ)のような操作について話してくれていたのを今でも思い出します。胚を雌親(めすおや)に戻す操作を教えてくれるとき、顕微鏡(けんびきょう)をのぞきながら   今見えてるところに胚をもどすのよ と教えてくれました。覗き込んだ顕微鏡の右目の視野の中には大きな黒いものが中心に見えていました。対物レンズがだめになっているのです。   これじゃあ見えないよ というと、   慣れれば見えるようになるわよ と平気な顔で笑っていました。何から何まで魔法のようでした。 ケンブリッジに渡ってから間もないころの月曜日、シーラが   週末はなにをしたの? と聞いてきました。イギリスでは週末...

さくら

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わたしたちの研究ではマウスの示す行動の多様性に興味をもっています。特に、野生由来系統が示す行動はさまざまでそれぞれに特徴(とくちょう)があります。今、こうした系統の多様性を活かして、遺伝的にミックスされた集団から特定の行動形質を選抜する実験をしています。詳しくはまた何かの機会にここでも書きたいと思いますが、こうした実験を思いついた理由は世の中にみられる、さまざまな方向に変化した生物の多様性にあるのです。 生物の多様性には驚かされることがたくさんあります。 私の好きな犬をみても同じ種でありながらその犬種の多様さはどうでしょう。子牛のように見えるマスティフから同じ犬には見えない小さなチワワなど大きさにはずいぶん差があります。それに行動も違います。ラブラドールなどは遊び好きで人になれやすい性格ですが、土佐犬やアメリカンピットブルテリアなどのように闘争(とうそう)するために作られてきた犬種(けんしゅ)もあります。あまりにも人はさまざまな犬種を作ってきたためにいろいろな問題を抱えている犬もいます。ミニチュアダックスは胴長(どうなが)につくらているために、背骨(せぼね)の変形が問題になることがありますし、パグは鼻がつぶれた顔が特徴ですがその特徴的(とくちょうてき)な形態のために呼吸障害(こきゅうしょうがい)を起こしている個体も多いようです。パグに関しては、呼吸障害が動物への日常的な負担となって常に苦しんでいる個体が多いため、繁殖(はんしょく)をやめるべきだという意見もあるようです。また、先のアメリカンピットブルなどのような攻撃に特化して選抜された犬種は、あまりにも危険なため、イギリスなどでは飼育が禁止されています。このようにいろいろな問題もあるのですが、ひとによる選抜育種はそれほど多様な生物を作り出すことができるということは驚きです。 少し明るい話題に移ります。遺伝研の構内にはいろいろな種類(しゅるい)のさくらの木が植えられています。これらは故竹中要博士がご在任中に収集されたものですが、亡くなられてほぼ半世紀が過ぎてもまだ多くの人を虜(とりこ)にするそれらさくらの木の魅力は感嘆(かんたん)すべきものがあります。ほぼ200種類の品種が植えられていますが、そのさくらの花の色やかたちはさまざまです。今年はそのさくらの花がいっきに咲き始めて構内はとてもきれいです。散歩(さんぽ...

Anxiety

入り組んだフィヨルドの地形の湾には冷たい海水が静かに音もなく漂(ただよ)っています。あたりは夕暮れをむかえ暗くなりつつある中、湾に面した道路を多くのひとびとがこちらに向かって歩いてきます。歩みは遅く、だれもが重たげに少しずつ静かに足を運びます。ひとびとの顔には豊かな感情はなく、これから起きるかもしれないことに漠然(ばくぜん)と思いをはせながら歩いているのかもしれません。その思いは、まるで歪(ゆが)んでしまった遠くの血の色をした夕焼け空の様子がもっともよく表しているように思えます。 1894年にエドヴァルド・ムンクは「不安」と題する絵画を描きました。彼は「叫び」と題する似たような構図の作品を書いているので、おそらくこちらの方が多くの人にはなじみがあるでしょう。彼自身が幼少期に虚弱(きょじゃく)だったことや母親や姉を結核で亡くしていたことなどから、ムンクは病気や死に対する漠然とした不安を抱いていたと言われています。そのようなことがこの作品にも強く表れているのかもしれません。 不安は、その原因や対象がはっきりしない恐れの感情を表すものです。以前紹介したような私のヘビに対する恐れは対象がはっきりしていますので恐怖といいます。それに対して、特に何を恐れているのかはっきりしないけれどもなんとなく心の中がざわついて毛羽立(けばだ)った感覚になるのを不安というのでしょう。 マウスを用いてこの不安を調べる研究があります。マウスが人のように不安を感じているかということは正確には分からないので、「不安様行動」と言います。以前紹介したオープンフィールドテストもそのような行動実験の一つです。マウスの場合にはムンクのように病や死を恐れるということはないので、むしろどこからか突然なんらかの捕食者(ほしょくしゃ)が出てくることへの恐れを調べることになるでしょう。このような恐れは食物連鎖の上位にいない動物にとっては生存上必須のものです。たとえば、マウスが日中にのんびり外を歩いていればあっという間に猫や猛禽類(もうきんるい)などの捕食者にとらえられてしまうでしょう。それに対して、暗闇(くらやみ)を、しかも大きなものに接するように移動して、捕食者の視覚(しかく)に入らないよう常に気をつけて行動することはより生存のチャンスを高めることにつながります。 しかし人の場合は、世の中で不安に思い始...